コラム
2022/05/16
ベイスターズにとって、試練の1週間となった。
5月10日の火曜日、年に1度の新潟でのゲームに7年ぶりに勝ったものの、その後に横浜スタジアムで行われた3試合で3連敗。35試合を終えて14勝21敗となり、負け越しは今シーズン最多の「7」に膨らんだ。
本拠地に足を運んだファンが沸く時間は短かったが、印象的な場面を一つ挙げるなら同12日のジャイアンツ戦、初回の攻撃だろう。
相手先発は菅野智之。先頭の桑原将志が初球を二塁打とし、関根大気が送りバントを成功させた。ここで打席に入ったのが、楠本泰史だった。
「絶好のチャンス。(菅野が)いいピッチャーだということは重々わかっていたので、自分が打てるボールが来たと思ったら、1球目から絶対に強く打ち返してやろうと思っていました。バットに当てさえすれば、なんとかクワさんがホームにかえってくれるだろう、と」
初球に投じられたのは、高めのカットボール。無心でバットは出た。
「待っている球ではなかった。打てると思ったら、勝手に手が出ていた」
鋭いスイングでミートすると、打球は右中間フェンスの上部を直撃した。先制点をもたらした二塁打は、“本能”で放った一打だった。
昨シーズン、代打として打席に入ったときの打率が3割近くに達し、「代打の一番手」となった楠本。シーズンの終盤にはスタメンで起用されることも増えた。
だが、満足感はほど遠い。
「いろんな方から『よくやったと思うよ』という言葉をいただいたんですけど、壁を必死に越えようとしている、その積み重ねを評価していただいているだけ。もっと試合に出たい、いい思いをしたいという気持ちのほうが強い」
たどり着きたいのは、あくまで壁の向こう側、レギュラーになることだ。そこをめがけて、今年の春季キャンプに取り組んだ。
昨シーズンの代打としての好成績は、いくつかの試みが功を奏したことが要因になっている。たとえば、相手バッテリーの配球傾向を読み、それに合わせて打席での立ち位置やバットの握る位置を変えた。つまり、考える作業を介して確実性を高めていったのだ。
うまくいったことに関しては継続していこうと考えた。ところが沖縄で過ごした期間、思うようなスイングができなかった。
「全然、結果が伴わなくて。ただただバットを振っているというか……先の見えないトンネルの中を進んでいるような感覚。『結果は気にするな』と言われても、周りの選手が結果を残しているなかでどうしても気にしてしまう状態でした。すごくモヤモヤしながらバットを振っていた」
その様子を見かねたのか、打撃コーチの鈴木尚典が楠本に声をかけたのは、チームが横浜に帰ってきた3月はじめのことだった。
「今度早めに集まって、1時間くらいバッティングについて話そうか。どういう感覚でやっているのか知りたいから」
そうして、ある日の全体練習が始まる前、2人は対話の時間を持った。「かしこまらなくていいぞ」と促され、楠本は打撃の感覚を詳細にわたって言葉にしていく。すると、鈴木は驚いていた。鈴木自身が現役時代に持っていたそれとピタリと一致していたからだ。
助言は自然と導かれた。かつて鈴木が心がけていたことが、そのまま伝えられた。
考えれば体が動かなくなる。考えるのではなく、本能で打ちにいけ――。
楠本は言う。
「技術のことやものの考え方について尚典さんと話をさせていただいてから、吹っ切れて、オープン戦でも結果がついてくるようになりました。あの時間がなかったら、ヒットは出なかったんじゃないかなって」
3月25日、開幕戦のメンバー表に楠本の名前は書き込まれた。翌日以降もスタメン起用は続いた。
ただ、それが真のレギュラーとしての起用ではないことは、楠本自身よくわかっている。
「ケガ人とか離脱者が出たなかで、監督に使っていただいている、という感覚です。オースティンがケガをしていなかったら、たぶんここまで試合に出られていないと思うので。でも、自分にとってはチャンスだと捉えていますし、オースティンが帰ってきたときに首脳陣を迷わせるぐらいの活躍だったり存在感だったりを残せるようにしたい」
今シーズンを迎えるにあたり掲げた目標は「1年間、一軍で完走すること」。その達成に向けて順調にスタートを切ったかに思えたが、予想しない形で道は断たれた。
開幕から2週間が経過した4月8日、新型コロナウイルスの陽性判定。戦線離脱を余儀なくされた。
「症状もなかったので、連絡をもらったときは『まさか自分が』と……。感染対策、予防をこれだけしてもかかる。ガッカリした気持ちは大きかった」
自宅から一歩も出られない日々が始まった。何をすればいいかもわからず、「2日目ぐらいにはもう頭がおかしくなりそうだった」。それでも、戦う気持ちだけは失わなかった。ナイターの時間になるとテレビをつけて、仲間のプレーを食い入るように見つめた。手にはバットを握りしめていた。
ファームでの調整を経て、4月21日に一軍に復帰。その日のタイガース戦に1番打者として先発出場すると、1本塁打を含む3安打と大暴れした。
「野球ができるってこんなにうれしいんだ、と実感しましたね。スタジアムに戻ってきて試合に出られたときは、むちゃくちゃ楽しかった」
その試合で打率は.310にまで上昇したが、以降は徐々に数字が落ち、現在は.257。自身のコンディションについて、楠本は言う。
「復帰した試合も、なんでうまくいったのかわからない状態。感覚が(コロナ前に)戻っていないというか、微妙なズレを感じながら、探り探りやっているのが現状ではあります。でも、それもいまの自分の実力だと受け止めなきゃいけない。いまの自分に何ができるかにフォーカスして、下を向かずにやっていこうと思っています」
試合のあと、とりわけ打てなかったときに、楠本は鈴木によく声をかけられる。「反省は(夜中の)12時までにしよう。ちゃんとご飯を食べて、ストレッチをして、体のケアをしたうえでよく寝てから、明日また新たな気持ちで球場に来るんだぞ」
スタメン出場のチャンスを得た昨シーズン終盤、打てずに終わった試合のあとは、落ち込んだ気持ちを翌日まで引きずっていた。今年は違う。「反省は12時まで」。切り替えの術を少しずつ身につけ、次の試合にポジティブに向かっていけるようになってきた。
鈴木は楠本の姿に、若いころの自分を重ねているのかもしれない。
そして楠本の目には、いまの伊藤裕季也の姿が過去の自分に重なる。
楠本と伊藤は、ファームでともに汗を流すなか親交を深めた。5月3日からは揃って一軍で戦ってきたが、それぞれの立場には開きがある。楠本はレギュラーの座に手をかけようとしていて、伊藤は限られたチャンスでの結果を求められている。
伊藤について、楠本は言う。
「裕季也がファームにいたときも、気になって結果を見たりしていました。思い入れが強いと言ったらおかしいですけど、裕季也はまだまだこんなもんじゃないと思っているので、いっしょにたくさん試合に出られる日々を目指して、切磋琢磨したいなと思っています」
現状を打破しようともがく伊藤の話を聞いて、楠本はこう感じたという。
「悩みごとを聞くと、2、3年前、自分が代打で出たり、一軍とファームを行ったり来たりしていたころに直面した難しさ。それとまったく同じ姿を見ているような感じだった」
楠本は経験談を話した。毎打席ヒットを打たないと一軍に残れないんじゃないかと考えれば、自分自身を苦しめる。ここまで練習して、ここまで準備して、そのうえで打席に入ってバットを振って、あとは打球がどこへ行こうがもう知らない。それくらい腹をくくれるようになってから、おれの場合は変わってきたよ。そういう気持ちで打席に入る裏づけは自分自身で補うしかないし、それだけやりきったら後悔もないよな。そんなことを伝えた。
伊藤は同16日、登録を抹消された。再び這い上がってくることを、楠本は信じて待ち続ける。
100試合以上を残す今シーズン。展望を問われた楠本は言う。
「(現在の厳しいチーム状況は)ケガ人がいてメンバーが揃わないからだと言われてしまうけど、そんなの言い訳にはできないので。いるメンバーで目の前の戦いを勝ちにいくしかないですし、こういうときこそチーム力が試される。みんなで束になって、借金を返していきたい思いしかありません。シーズンが終わったときにどうなっているかということを自分はあんまり考えていなくて。先を見ずに、目の前の1試合、ワンプレーに全力を出せる準備をして臨みたい」
備えにおいては、思考を尽くし、万全を期す。
打席に入れば、思考を捨て、本能に任せる。
そうして一歩ずつ、前に進むしかない。