コラム
2022/10/03
臙脂から青へ――。
ユニフォームの色合いはガラリと変わったはずなのに、新たなカラーに包まれた30歳の姿には不思議なほど違和感がない。
中継ぎ右腕の森原康平は今年7月28日、イーグルスからベイスターズへ、トレード移籍した。
横浜での2カ月余りを、滑らかな口調でこう語る。
「まずチームは、圧倒的に元気で明るい。すごく気持ちよく毎日を過ごせています。横浜の街に関しては、これまで関東にゆかりがなかったので、いつか住んでみたいと思っていました。まだゆっくりはできていないですけど、家族で行けるスポットも多い。これからが楽しみです」
広島県の山陽高から近大工学部、新日鐵住金広畑を経て、2016年のドラフト5位でイーグルスに入団した。プロ入り後の歩みを振り返ると、3年目の2019年に残した好成績が目を引く。
主にセットアッパーとして、64試合に登板。4勝2敗29ホールド、防御率は1.97。イニング数(64回)を上回る奪三振(65個)を記録した。森原は言う。
「1年目、2年目と、一軍で1年間やりきることができなかった。2019年はそれができたのが何よりよかったですし、数字も伴っていました。クローザーの松井裕樹に勝ちをつなぐのが役目。チームに勢いを与えるピッチングを意識していました」
威力ある直球とフォークボールのコンビネーションが投球の軸だ。柱となる直球の球速にもこだわりがあったという。
「アベレージで150kmを秘かに目標にしていたんです。実際は149.3kmくらい。目標には少し届かなかったけど、いい感触で投げられたシーズンでした」
だが2019年の数字に比べれば、その後2シーズンの成績はやや物足りなく映る。2020年は登板17試合で、1勝2敗4セーブ2ホールド、防御率7.56。2021年は登板34試合で、0勝0敗3ホールド、防御率2.78だった。
とりわけ2020年は、前年からのさらなる飛躍が期待されたシーズンだったが、期待に応えることができなかった。
「言い訳をするつもりはないですけど、コロナの影響でシーズンがなかなか始まらなくて、調整が難しかったところはあります。ぼくにとってはチャンスだったのに、つかみ取ることができず、めちゃめちゃ悔しかった」
そう口にする一方で、森原は得たものも大きかったと話す。クローザーを託されたこと。その場所を守り切れなかったこと。それらを「悔しい」の一言で片づけず、自らを成長させる材料として消化した。
「9回のゲームを締めるポジションの大変さ。やっぱり、気持ちも技術も高いレベルにないと、そこでしっかりとした成績を残すことはかなり難しいと思う。でも、そういうことはやってみないとわからないので。それを経験できたのは、ぼくの野球人生としてはすごくプラスだったと受け止めています」
この例に限らず、森原は常にポジティブな思考法を貫く。ケガについて話題が及んだときも、こう話した。
「2018年(3月)に、右ひじのクリーニング手術を受けました。リハビリの間、チームを離れなくてはいけないというマイナスもありますけど、その時間でしっかりトレーニングを積んでパワーアップできるというプラスもあると捉えました。それが2019年につながった面もある」
今年1月には2度目となる右ひじのクリーニング手術を受けたが、1度目のときと気持ちは同じだ。2020年、2021年に「スピードが物足りない」と感じていたからこそ、復帰までの時間を最大限有効に使うと決め、出力の上がる体の使い方を模索した。
そして7月に一軍に復帰し、3試合に登板。「ここから巻き返す」。決意を新たにしたところだった。
7月下旬、森原はテレビで「マイナビオールスターゲーム2022」を観戦していた。試合が終わった直後、イーグルスの球団職員から電話があった。
「明日、朝イチで球団事務所に来てください」
時期を考え、トレードの可能性は真っ先に頭に浮かんだ。翌朝までの間、さまざまな想像が頭の中を駆けめぐった。
「いちおう自分なりに予想したんですよ。あるとしたらセ・リーグのヤクルト、広島、DeNAかなって」
球団事務所で告げられたのは、やはりトレード成立の知らせ。移籍先の予想も的中させた。
突然の展開に対する驚きやイーグルスを去る寂しさもあったに違いないが、たとえば「ショックを受けた」というようなネガティブな表現は森原には当てはまらない。やはりポジティブな気持ちが上回った。
「予想どおりでしたね。ぼくにとってのベイスターズのイメージはめちゃめちゃよかったんです。今シーズンの序盤は出遅れましたけど、メンバーを見たら野手も投手もかなり揃っている。なので、このピッチャー陣の中で自分が投げられるかな、という気持ちはありました。でも、マイナスな要素は一切なかった。横浜に住めるのも楽しみだし、トレードはチャンスだと思っていましたから。前向きですね」
新天地での再スタートは、いきなりつまずいた。ファームでの調整をこなし、一軍昇格が視野に入ったころ、新型コロナウイルスの陽性判定を受けたのだ。
「体力的に落ちて、またそこから。その時間はかなり痛かった」
ようやく一軍のマウンドに立つことができたのは、9月19日。東京ドームでのジャイアンツ戦に登板し、1イニングを2奪三振を含む三者凡退に抑えた。
この試合で投げた直球の最速は147km。現在の投球スタイルについて、森原は言う。
「スタイルは変わっていないですけど、出力がもっとほしいなという思いはありますね。18.44mの距離の中で、球が速ければ速いほど、相手に考えさせる時間を与えないので、そこは武器になる。ただ、ぼくとしては制球力も大事にしています。ぼくの中では、コントロール、スピードという順番なんです。あとは、ここぞというときに三振が取れるピッチャーでありたい」
出遅れが響いて登板6試合に留まっているが、その中で最も印象深いのは9月21日の本拠地デビュー戦だ。ジャイアンツ1点リードの6回表、2アウト満塁の場面で森原の名前はコールされた。
「リリーフカーで出ていくとき、横浜スタジアムが大きな拍手ですごく盛り上がってくれた。ストライクを取るたびに、その盛り上がりがデカくなって」
打席のウォーカーを直球主体の配球で追い込んだ。打球が前に飛べば何が起こるかわからない。決め球はフォーク――。
バットが空を切るのを見届けて、森原はガッツポーズをつくりながらマウンドを降りた。
「あの場面で、求められていた三振だと思う。自分の仕事ができた、という思いでした。ベイスターズの一員として初めてハマスタで投げたわけですし、スタジアムの雰囲気にも後押しされてガッツポーズが出ました」
インタビューの中で森原が繰り返し口にした言葉の一つが「仕事」だ。「自分の役割」と言い換えてもいい。
例えば9月23日、神宮球場でのスワローズ戦。7点リードで迎えた9回途中、反撃を受けるなかで森原はマウンドに上がった。過密日程のさなか、できることなら勝ちパターンの投手は温存しておきたい場面。すでに勢いづいた相手打線に2点を奪われながらも、なんとか自分の手で試合を終わらせた。
同29日のドラゴンズ戦では、5点リードの9回に登板。内野安打1本を許したものの、試合を荒れさせることなく淡々と3つのアウトを重ねた。
「神宮では、エスキー(E.エスコバー)、ヤス(山﨑康晃)を使いたくない場面だったので、自分が投げて勝ちで終われたのは、仕事ができたかなと思います。中日戦では9回の先頭から投げたので、1人で投げきることが仕事。求められた仕事ができてよかった」
今週末から始まる「2022 JERA クライマックスシリーズ セ」に向けても、こう意気込みを語る。
「どこで名前を呼ばれるかわからないですけど、そのときの自分の役割があるので、それをどれだけまっとうできるか。ランナーありの場面なら、しっかり三振を取りにいきたい。場面場面で自分に与えられた役割をしっかりこなせるように、全力で準備していきたいと思います」
ベイスターズ入団に際して、パーソナルスローガンの提出を求められた。
森原の頭に浮かんだのは「運と縁(FORTUNE AND FATE)」という言葉だった。
「トレードでチームが変わると、単純に考えて人脈が2倍になるじゃないですか。だから、ぼくの人生としても、野球人生としても、すごくプラスだと思っていますし、このご縁を大事にしたい。それと、ぼくは自分で勝手に運がいいと思ってるんです。めちゃくちゃツイてる。過去を振り返ってもいい人たちに巡り会えたし、マウンドでも『ツキがあるから大丈夫だろ』って考えているようなところがあるんですよ」
この前向きな性格、きっとベイスターズのカラーにぴったりだ。ユニフォームの色が変わっても違和感がなかったのは、もしかしたらそれが理由なのかもしれない。